日田市の精神科・心療内科

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院長自己紹介

Self-introduction

長の黒歴史?
(超・くてクドい自己紹介)

寺尾こころクリニック
(精神科・心療内科) 
院長 寺尾 大

皆様こんにちは。院長の寺尾 大(てらお まさる)です。私は未熟児で、大きく育てという両親の願いから「大」と名付けられました。ところが名前の力は恐ろしいもので、少々大きく育ちすぎ(Max104.5Kg)、糖質制限で現在82Kgまで落としたものの標準体重には程遠い有様です。講演会などで「寺尾大先生」と垂れ幕やネームカードに書かれますと「『大先生』って、どんな凄い先生なのぉ?」…発表前から無駄にハードルが上がりまくる、困った名前です。

私は山口県下関市に生まれ、小学校まで城下町の土塀や乃木希典将軍の生家などが残る「長府」という町で育ちました。この頃の私は現在のポンコツさからは想像もつきませんが、全校生徒3,000人、1学年13クラスという当時日本一のマンモス小学校で生徒会長を務め(すみません。ここからプチ自慢です…)成績はトップクラス、ヴァイオリン県大会で3位に入賞、栄華?を極めておりました。えっへん。ところが驕る平家は久しからず、この後、雪崩をうって私の人生は転落してゆくのでした。うえーん(号泣)。

小5、ヴァイオリン教室
右が小5で11歳、黄金期(笑)の私。左は山口県が生んだスター、ミュージシャンにして牧師の陣内大蔵先生です(後述)。同じヴァイオリン教室に通っていました。

調子に乗って鹿児島ラ・サールを中学受験。塾の先生から「君の成績でラ・サールは難しい。久留米附設にしておけ。」と諭されたにも関わらず強行し見事不合格。唯一「お試し受験」で合格していた広島学院中学にヤケクソで進学しました。ところがここは、毎年数十名の東大・国立大医学部合格者を輩出する中国地方指折りの進学校なのでした。私といえば200人中100番前後をうろうろ。チンケなプライドは木っ端微塵に粉砕され、学業に興味を喪失した私は、学外のアマオケに入り、友人とバンドを組み、教師や親にも猛反発。寮の仲間と悪さもし、自堕落な生活を送っておりました。

高校1年、文化祭
向かって左が広島学院高校1年、16歳の私。中央は中増君(広島で整形外科開業)、右端の音響調整は近廣君(NTT)。文化祭でビートルズと、さだまさしのコピーバンドを。オリジナルも作っていましたが、人前で公開する勇気はありませんでした。
高校2年影絵劇団まつのみ
広島学院清友寮の先輩から受け継いだ「影絵劇団まつのみ」の一コマ。立ち見が出るほどの大盛況でしたが、寮の閉鎖とともに劇団も消滅。左から2番目の私は高校2年、17歳。右端の遠山君は総合美術監督を務め、上掲のような素晴らしいビジュアルを創出してくれました。この36年後、彼はクリニックのロゴ・エンブレムも創ってくれたのです。
高校1年、体育祭
高2、17歳の私。体育祭。逆三角形の細マッチョボディ。それが今では…

当初の目標は九大医学部でしが、こんな成績で届くはずもありません。私の祖父母は知人の保証人になったばかりに家屋敷を失い、私が生まれた頃には病院の住み込み事務員&賄い婦をしており、両親はサラリーマンと薬剤師で生活に困る事はありませんでしたが、高額な私立医学部の学費を捻出するのは到底不可能。一浪して何とか駅弁国立…もとい、鳥取大医学部へ滑り込みました。日本最遅のディーゼル特急「いそかぜ」にゴトゴト揺られて6時間、受験前日に初めて米子駅に降り立ったときの衝撃(ウルトラド田舎)は忘れられません。

鳥取大医学部の入学式直後
嫌々入学した鳥取大医学部の入学式直後、19歳。精一杯カッコつけてますが、目が虚ろです。
大学2年、医系音楽サークル
右端が私、大学2年20歳ごろ。医系音楽サークルの部長を努め、ついに?オリジナル曲を披露。シーケンサーの演奏をバックに弾き語り、気分(だけ)はハワード・ジョーンズ?調子に乗ってコンテストに応募するも、あえなく落選。

ところがヤケクソで入学してみると、そこは地元医師のご子息や、京大・阪大・九大・神大・岡大・広大などの国立医学部には届かないが、経済的理由で国立しか選択肢にない現役〜多浪生、もしくは再受験組(社会人の方も含む)、等々…まさに多士済々、才能と気迫に満ちた方々の巣窟でした。舐めきっていた私のプライドは木っ端微塵に粉砕…って、あれ、またか(笑)。そしてやっぱり学業に興味を失い、塾講師のアルバイトや音楽活動にのめり込み、バイトで買った中古車で鳥大病院の交差点で大事故をやらかし死にかけ、鳥大病院に搬送され恥をかき、3度の手術を受けC型肝炎になり、インターフェロンを打ちウイルスは排除できたものの留年し、当時付き合っていた女性にも捨てられ、国試にも落ち…辛くも医師免許を取得した時には28歳になっておりました。長い長いモラトリアムでした。

22歳、塾講師アルバイト
留年中の22歳、週6日の塾講師アルバイトでのショット。小3〜高校生までを受け持ち、自分で言うのも何ですが、立ち見が出るほどの人気講師でした。ホントですよ。
大学5年、ユーノスロードスターVspecial 1.6後期型と。
大学5年25歳の時、必死にアルバイトして買ったユーノスロードスターVspecial 1.6後期型と。人生最高の車でしたが、この後スピンしグッチャグチャになります。

このような超・回り道の人生を送っておりますと、次第にSpiritualityに興味が目覚めてまいります。そういえば広島学院中・高時代も、作家・詩人で精神科医でもある北杜夫(斎藤茂吉先生の次男)さんの著作を愛読しておりました。そこで九大心療内科へ入局し5年間在局。最後の2年は福岡済生会で岡留健一郎先生、壁村哲平先生のもと、上部消化管内視鏡を1,000例近く経験させていただきました。しかし「内科医をベースに、時に精神科医でもある」立脚点が自分の能力を超えていると痛感、精神科の勉強に専念し、指定医を取りたいと双子誕生の翌月に退局願を提出したのです。妻以外の親戚一同からは「子供が生まれたばかりなのに正気か?」「キ○ガイの相手をしに行くのか!」等々、総スカン。ううう、奥さんありがと〜。また心療内科のK教授(当時)やS医局長(当時)からも大変厳し〜〜いお言葉を頂戴しました。幸い九大精神科が受け入れてくださいましたが、いやぁ〜マジで危なかった。

28歳、九大心療内科の入局直後
28歳、九大心療内科の入局直後。みなさん、キチンと白衣を着ているのに、私だけ前を開けて斜に構えヤサグレております。困ったヤツでした。
31歳、職場の先生方に誘われバンドに参加
31歳。研修医が終わり大分県佐伯市に飛ばされていた独身時代、職場の先生方に誘われバンドに参加。左端フィドル(エレキヴァイオリン)が私です。
32歳、双子を妊娠中の妻と。
32歳、双子を妊娠中の妻と。場所は自宅の宮殿…なわきゃなく、佐賀県の「有田ポーセリンパーク」です。この頃体重は100Kgオーバー、ううむ、どっちが妊婦かわからんぞ。

その後、九大病院・福岡県立太宰府病院・肥前精神医療センターの勤務を経て、故 奥村集(おくむら あつめ)先生にお誘いいただき、奥村日田病院へ2003年に就職。ここから日田とのご縁が始まりました。双子の進路が落ち着いたので、念願のクリニック開業準備を開始しましたが、ここでも「調子に乗って、自分の適性や実力を見誤る」という、中学以来の悪い癖が発動、当初はリエゾンで20年以上外来を受け持っていた福岡済生会の近く(天神)で計画しておりました。ところが、押しても引いても泣いても叫んでも、もうでんぐり返りしても上手く行きません。決して落下傘開業というわけではありませんでしたが、半径2kmに40件弱の競合先、天神ビッグバンの影響で家賃高騰などが主な理由でした。相談した先輩医師やコンサルなど、周囲に不平不満を言っている間は何一つ進捗しませんでしたが、日田でやろうと決心した途端、重石が外れたように全てゴロリと転がり出したのです。結局自分の「心の問題」だったのでしょうか。正直に申し上げますと、日田での開業にあたりましても「多少のトラブル」はございましたが、なに、事故で死にかけた事や、その後の諸々に比べれば「そよ風」程度、ハイブリッドカーならエコモードでございます。悪意ある方々のチンケな妨害など、あもう屁でもありません。最後には九大心療内科の大先輩である松浦達雄先生に的確なご助言もいただき、乗り越えることができました。

そんな中でも鳥取大関係者、就中当時九大におられた東豊先生(現龍谷大学文学部臨床心理学科教授)のシステムズアプローチに触れた事は、眼から鱗が500枚落ちる程の衝撃でした。詳しくは東先生の著作に触れていただきたいのですが、これは、

「原因探し、悪者探しをしない。」
「すべての事象は原因でもあり、結果でもある。」
「直線的思考ではなく円環的思考を。」
「コンテンツ(内容)よりコンテクスト(文脈や関係)を重視し、コンテンツにとらわれることなくコンテクストに目を向ける。」
「上記により“悪循環のパターン”に介入し、“患者とされている人(IP:identified patiant)”に起こっている負の連鎖に、ささやかな、しかし有効な変化を及ぼし、治療者側もまた変化を受ける。」

という「ものの見方」です(で、合ってますよね、東先生?ドキドキ…)。
この考え方は、当院の理念「さあ、変わろう。」の基礎にもなっています。
…ちょっと難しかったかな?

2014年には同郷の幼なじみで6年間一緒にヴァイオリンを習った陣内大蔵さん(著名ミュージシャンにして牧師、刑事貴族2のテーマ「空よ」や、メントスのCMソング「深呼吸」「新しい風」「僕は風君は空」等々)と40年ぶりに再会し、日田でのコンサートを企画し、横槍も多少は入りましたが大成功、飛び入りでヴァイオリンを弾くという暴挙に出ることが叶いました。陣内さんには当院サウンドロゴと冒頭のテーマソング制作も依頼していますので、楽しみにしてくださいね。さらに「盾」をモチーフとしたロゴマークは中高同級の遠山知秀君が、寓意を込めた素晴らしいモノをデザインしてくれました。

遠山君デザインの当院ロゴ&エンブレム遠山君デザインの当院ロゴ&エンブレム
遠山君デザインの当院ロゴ&エンブレム。彼の才能に何度も助けられました。
49歳、陣内大蔵アコースティックコンサートin天領日田
49歳。2015年11月の「陣内大蔵アコースティックコンサートin天領日田」に無理矢理飛び入り。超・暴挙でしたが、楽しかった。

ここで私は、故Steve Jobs氏の有名なスピーチ(2005年Stanford大卒業式)を想起せずには居られないのです。

<以下引用>

You can't connect the dots looking forward; you can only connect them looking backwards. So you have to trust that the dots will somehow connect in your future.

将来をあらかじめ見据えて、点と点をつなぎあわせることなどできません。できるのは、後からつなぎ合わせることだけです。だから、我々はいまやっていることがいずれ人生のどこかでつながって実を結ぶだろうと信じるしかないのです。

<引用終わり>

私にも、そろそろ散らばった人生の欠片をつなぐ季節が訪れたようです。
鶏口牛後、しかしながら行住坐臥、いかなる時にも感謝と初心を忘れることなく、日田の皆様の「こころを守る盾」となるべく精進して参ります。

…とチョットだけマジになりましたが、明日もまた診察室で、しょーもないオヤジギャグを炸裂させているんだろうなぁ。
てなわけで、「超・長くてクドい自己紹介」はおしまいです。ピッカピカの経歴の「エリート医師」にかかりたければ、お止めになったほうが良いかもしれません。ですが人生において失敗や困難で心が弱っているなぁとお感じの方、家庭や職場や社会での居場所がないとお感じの方、あちこち検査をしても「異常なし。気のせいです。」などと言われ途方に暮れている方、には寄り添える力があると自負しています。なんせ私自身、失敗続きで途方に暮れまくりでしたからね(笑)。

53歳、2019/9の内覧会
53歳。最後の写真は、2019/9の内覧会で、妻・両親・妹夫婦・双子(福大医学部2年)とともに。

こんな私で宜しければ、どうぞお気軽にご予約・ご相談ください。

私達とご一緒に、「さあ、変わろう。」

クリニックでお待ちしています。